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桂林日本人会のルーツ⫽歩み⫽活動

桂林日本人会のルーツ

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2006年頃になるとそれでも組織らしき形が整いつつ、地域の旅游学校の新年会に招かれ日本語学習を志す多くの学生と交流をはかり、親交を深める活動も少しづつ始めていました。ですが役員会らしきものはなく、前任会長の指名で後任が選ばれ、会長一人に全てを任せる運営の手法だったようです。

 

定例親睦会の意義日本人会として親睦会とは、会員同士の交流の場であり、隔月に行われる定例

親睦会は雑談の中にも互いの近況を確認し、情報交換であったり、友好関係構築の絶好の機会である事

11/9/10定例親睦会、幸運ホテル

桂林日本人会は1998年頃には既に存在していたようですが、当時を知る正確な資料は何処にも残っておらず、98年頃には既に熊本に本社を置く日系デパート(ニコニコ堂)があり、このデパートの総支配人の呼びかけで数人?程度が集まり会食が行われていたようであります。
これが桂林日本人会の原点でありルーツのようです。桂林は地方の観光都市であり観光で訪れる日本人は多くも、これといった産業は少なく日本の企業もありませ ん。日本人滞在者も少ないことから日本人会として充分に機能する程の会員も少なく、会食程度の親睦団体であって、資料として残る物も存在していないのかと推測されます。当時は親睦会も不定期の開催でありました。

桂林日本人会の歩み

Anchor 5桂林日本人会の歩み

願っています。海外にあれば困る事も相談したいことも時にはあるかも知れません。そんな時に日本人会であったり、友人であったり、日本人同士助け合えるのではと考えております。桂林日本人会は今後も会員の拠り所となれる日本人会を目標に発展を続けていく心算です。

ある事件が契機に2011年3月11日東北大震災の日です。この日桂林日本人会では、一人の会員が突然の病気に依る、意志半ばで無念にも奥様と奥様側親戚と日本人会からは日頃から懇意であった二人だけに看取られ寂しくも静かに亡くなられるという悲しい事がありました。ですが日本人会として何もできないことに疑問、これを契機に日本人会の再設立と共に会員の拠り所となれる相互扶助のできる日本人会を目指そうという気運が高まり、再出発の準備と共に2011年7月23日を以って再設立の運びとなりました。

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桂林日本人会の活動

桂林日本人会の活動は ①内部活動②対外活動、のカテゴリーに分けて紹介しています。   

再設立早々一大事2011年8月17日

再設立1ヶ月というのに、ある日突然○○さんが倒れ救急車にて搬送されたと一報が事務局に、取るものも取り敢えず知らされた病院に駆けつけると通報をくれた方が心配そうにそこにいた、話を伺うと約束のに時間に来ない、電話にも出ない、不審に思い自宅に尋ねるも応答はなく裏口から家に入ったところ倒れているのを発見したと言う。すぐさま救急車の手配それから事務局に連絡をしたといいます。
医師の診察によるとくも膜下出血(大動脈破裂と診断)によるもので意識は呼びかけにかろうじて反応する程度で危険な状態にあることを告げられる、家族に至急連絡を取るよう指示されました。
ですが生憎にも会員登録に日本の連絡先の所在が記入漏れであり、会としては八方に手を尽くし家族の所在確認をを模索、当然領事館にも問合せ協力を仰ぐ、数時間後領事館から家族の所在地の連絡が入り、日本の家族に緊急の電話連絡。と同時に日頃交流の深い会員にも連絡、ほどなく十数人が駆け付け経過を案じる。友人が集まり案じるも病状に変化の期待がもてるものではありませんが、再設立前の日本人会では責任者もおらずきっと会報も発せられないまま、孤独に耐え病と闘うと思うと寂しいものを感じます。
3月に亡くなられた△△さんの時には奥様とその家族だけに看取られ静かに逝かれた事を悲しくも鮮明に思い出します。
海外にあって誰もが突発時には、心配してくれ
る人であったり、拠り所が必要かと思われます。少なからず同じ理解できる仲間があることはとても重要であり、心強く感じるに違いありません。
2日後家族の方が来られました。病院の懸命の努力を以ても意識は回復することなく、最後に家族に看取られたことだけは幸いでした。そして荼毘に付され家族の胸に抱かれて桂林を去りました。数人の会員の仲間は荼毘に立会い最後の別れを偲ばれました。

人道的配慮、2013年11月12日

ここ数日○○さん(会員)と連絡が取れないと一報に驚く。事実を確認すべく住まいを訪ね警備員から状況を知されることになる。
その状況は、数日前より突然動けなく(突発の病)なり、飲まず食わずの状態で発見され、昼頃に救急車にて大学付属病院に搬送されたと聞かされる。すぐさま病院に駆けつけるとベットに横たわり点滴を受けている○○さんを発見。そこには勤務先の同僚や○○さんの古くからの中国人の友人もいた。CTなどの検査では脳に異常が認められない、消化器系の内臓に問題があると言う。意識はあるものの口が動かず会話ができず筆談でしか話せない。容態からして病状の厳しさが見て取れる。緊急の処置治療を施されるも運の悪いことに病室の空きがない、深夜になって転院を余儀なくさせられることとなる。転院先でもCT検査などあらゆる検査を受けるもはっきりした病名が不明のままだ、翌朝から更なる検査を試みるが、明確な診断は下されない。次第に弱っていくのが見て取れる。止むを得ず一大事になってからでは遅いので日本の家族に連絡を入れる。入院4日目を過ぎた頃、医師からこの状態では命の危険も考えられ日本に帰すなら今しかないことを告げられる。役員他数人が集まり日本に帰すか否か協議をする、日本に帰すことに多数の意見を得る、領事館にも経過説明と同時に今後の対応を相談する。領事館としては専門の搬送業者の紹介までが限度であり搬送業者を紹介される。業者とは香港にあるWellbeのことである。Wellbeに依頼するには高額な費用を要すること、手続に1~2週間要すること、業者を紹介されるも八方塞がりの状態、再度役員等で協議を重ねる、このまま悪戯に時間を費やすことを危惧、安全で最善な方法を求められ苦悩を強いられる。

苦渋の決断○○さんの古い友人と会長の二人が付添い日本まで搬送することに決断。人道的配慮を以って日本へ搬送を決断するも新たな問題が浮上○○さんの古い友人は中国人であることからビザが必要となる。人道的配慮を理由に領事館にビザの緊急発給を依頼。今回に限り人道支援としてビザ発給の回答、次にチケットの確保、翌16日の日曜日の出発に夜遅くまで掛かり準備を整える。不安は一向に尽きる事はない。
○○さんに帰国を知らせる。○○さんは帰国できることを聞くと安心なのか僅かに喜びの表情をみせる。病状に変化が期待される訳ではないが

精神的安堵感が伺える、少し体調が良いようにも見える。何事もなく無事日本まで到着できることを祈らずにはいられない。そんな心配も他所に成田に到着、家族の手配で救急搬送車が用意されていた、家族に挨拶も後回しで乗り込み東京の病院に直行深夜にも関わらず診察を受ける。取敢えず医師に発病からこれまでの経過を説明、再度CTを撮り診察の結果肺血栓と診断が下される。

日本の医療の優秀さを思い知らされる。数日後回復の兆しがみられ数日間緊迫と向き合ったがやっと安堵が訪れ胸を撫で下ろす。

突然の発病から約3ヶ月後再び桂林に元気な姿で○○さんはも戻ってまいりました。

 

◆日本を離れ同じ桂林に住む者同士として、互いに連絡を密に協力と助け合いの活動を忘れず、友交を深めています。

◆時に子供の学校問題であったりすれば子を持つ会員同士或は参考情報を持つ者が情報を提供、互いに協力しあいます。
◆海外にあってはパソコンは必需品、ですがある日突然壊れないとも限りません。日本のOSを搭載したパソコンは中国での修理は不可能に近 く難しい問題です。このような状況に手を貸してくれる会員もいます。

◆桂林に居住するということは毎年ビザ問題は欠かせません。ですが言葉の不自由な人にあってはビザ更新は煩わしく困難なものであります。

◆ビザ更新も互いに助け合ったり更新手続き方法を教えてあげられることも会員同士で可能ではないかと考えています。

◆普段元気であっても何時腹痛や風邪に襲われないとも限りません。買い薬程度で治る程度は良いですが、時には病院で治療も必要な時がある かも知れません。こんな時誰かに相談してみましょう。的確な回答が得られるかも知れません。

◆買い物ひとつにしても何がどこにあるかなど、特に日本食材など互いの情報があれば役立つことも多いと考えます。

◆桂林は地方都市であり桂林日本人会は小さな親睦団体ではありますが、それだけに家族的信頼感のようなものもあり、相互扶助、相互信頼は 何よりも確立されていると感じています。

 

日頃の日本人会

あんな元気な人がまさか2014年5月8日

あんな健康な人がまさか?。いつ何があるか誰にも分からない。夜の11時過ぎのこと奥さんから電話、すぐに来て欲しい。取り乱している様子はな いが雰囲気からして何か急いでいる様子が伺える。詳しい状況も分らないまま急いで駆けつけると廊下にうつ伏せで横たわる○○さんが視界に入る。どうやら意 識ははっきりしているものの体の自由がきかず多少呼吸が荒い。理由を詳しく尋ねると結婚式に参列白酒(中国の焼酎)を飲み気分が悪くなり、帰るまでは自力 で帰れたのに帰宅して倒れという。救急車と考えたが生憎中国では上層階まで救急隊員はあがって来ないということらしく、止む得ずマンションの警備員の手助 けを借り車に乗せ病院に運ぶことに。簡単な診察の後すぐに点滴を始め、血液検査など詳細に検査が続く、どうやら急性アルコール中毒らしい。普段かなりの酒 豪であるにも関わらずその日は午前中にB型肝炎の予防注射を受けていたようで、その影響かこのような事態に陥ったようである。災難は時を選ばず突然やってく るものだ。

医師曰く動かさず適切な対処で病院に連れて来たことが良かったと言う。幸いにも倒れた時点での打ちどころも大したことなく問題も少ない

数時間ベッドの傍で付き添ってはいたが夜もふけ夜中の3時、何することもできず奥さんを残し引き上げるしかない。

幸いにも重度のアルコール中毒ではなく、翌日には退院して自宅戻り療養となる、その後一週間程で回復に至った。

桂林日本人会、対外活動

理工大学シンポジウム、参加の報告。2013年9月29日

桂林理工大学外国語学院、日本語学科は2013年9月29日学術シンポジウムを開かれました。

この討論会に桂林日本人会も招かれ2人で参加させて頂きました。中国に於ける日本語教育と題して『日本国内の日本語学校比較して』或は『言語の理解』『日本語教育と日本文化』など幅広い議題で討論されました。流石大学の日本語教育だけあって日本語への取り組みは本格的で高度な教育方針などが話し合われ意義深いものを感じました。日本語が遠く離れた桂林でも多くの人々の理解のもと支えられ愛されながら学ばれていると思うと日本人としてとても嬉しく感じずにはいられません。

桂林は地方の観光都市ですが、観光都市でけあって当然親日感情もあり、日本語に興味を抱日本語を志す若者も多く桂林の各大学には多くの学生が真剣に日本語と向き合って勉強に励んで(います。

 

領事と情報交換 2014年2月23日

日中友好書画展開催に向け、一日早く桂林を訪れた広州総領事館の領事と日本人会から役員と前事務局長の四人で会食を交え中国に於ける

近況並びに桂林の現状と桂林日本人会の活動状況等情報交換いたしました。昨年法改正された在中国の居留ビザ等の更新手続きに関する

申請期間改正内容など、或は広西地区鳥インフルエンザに関する注意事項など、桂林日本人会再設立に至る説明や活動状況の報告であったり、桂林市に於ける治安現状の情報交換など幅広く意見伺いました。

日中友好書画交流展が開催 2014年2月24日 

石川県の小松地区日中友好協会は会員約70人、1982年から桂林市中國画研究会と交流を開始5年の間隔で友好書画展を開催してきた経緯があります。今年も小松地区より15人の方が桂林を訪れ、2月24日桂林博物館にて日中友好書画展が開催されることになりました。

24日の開幕式典には広州総領事館から領事も参加、桂林日本人会も領事館の配慮呼び掛けで参加させて頂くことになりました。桂林日本人会からは6人が参加、桂林市政府或は外事部の方々、小松地区日中友好協会の会員の方々とも名刺交換など挨拶を交わし面識を深め意義深い時間を共有いたしました。開幕式典には日中双方の関係者が会場に溢れんばかりの参加者で盛大に行われました。

開催式典終了後書画展展示会場に移動、小松市の作家の書と水墨画49点、桂林の作家の作品62点が展示されておりました。

   日中友好書画展開幕式典                    日中友好書画展                   日中友好歓迎晩餐会     

桂林迎賓館にて晩餐会 2014年2月24日

桂林市政府主催の晩餐会に小松市訪中団の一行、領事館関係者と共に桂林日本人会も晩餐会、桂林迎賓館、榕湖飯店に招待されました。

小松市と桂林市の日中友好交流と小松地区日中友好協会訪中歓迎の晩餐会であり、日中友好交流発展の意を願うものであります。

会場に選ばれた桂林迎賓館は市の中心部に位置し榕湖の畔の静かな環境の中にあり、榕湖飯店の敷地の一角にあります。内外の要人が桂林を訪れたときは必ずこの迎賓館が利用される桂林を代表する場所でもあります。

 

広西師範大学カラオケ大会 2014年3月16日

広西師範大学雁山キャンパスにて毎年恒例のカラオケ大会が日本語学科学生主催で開催されました。

桂林日本人会にカラオケの審査員としての依頼を頂き、おこがましくも審査員として喜んで参加しました。

毎年行われるこのカラオケ大会日本語を勉強する学生にとって最大の楽しみでもあり、日頃からの練習の成果が歌に表れており、日本人顔負けの歌唱力に驚かされました。日本語だけでなく日本の文化もこのような形で受け入れられており、熱唱を聴いていて、ただ歌うだけでなく歌詞内容も理解しており、若者の感性の豊かさに関心するばかりです。歌唱力、理解力、音程、表現力とても素晴らしいものを感じたひと時でした。

広西師範大学スピーチコンテスト 2014年4月11日

広西師範大学のスピーチコンテストとは広西地区(広西チワン自治区)スピーチコンテストの広西師範

大学の出場選手を決める大切な大会であり。2年3年生が中心となります。予め決められた持ち時間内

に自由課題であったりテーマに沿って思い思いの文章を原稿を見ることなく発表していきます。審査

基準は内容の豊かさであったり又表現力であったり、発音など技術に加え、発表態度に至るまで、学

生にとっては普段の勉強の成果を発表できるチャンスでもあり真剣さが伝わってきます。審査員とし

て細部にわたる厳しい審査も要求さ責任を感じます。

 

理工大学日本語教学フォーラム 2014年4月26日

理工大学では毎年、日本語教学フォーラムと称して公開討論の場を開催している。

今年の教学フォーラムには桂林日本人会も招かれ参加をいたしました。他大学の日本語教師の

方も多数参加され、会場が満席になるほど、海外に於いてこれほどまでに熱く日本語教育を語られ討議されていることに日本人として嬉しいばかりでなく感動さえ感じざるを得ません。

日中政治不安も何処に、民間レベル或は教育の場で日本語や日本の文化が多く語られている事

日中関係も日本語を通して十分機能し、優れた環境で学ばれる中国の若者が多くいることは誠に嬉しいの一言に尽き、桂林では理工大学の他、数校の大学で日本語は学ばれ毎年数百人位は

日本語や日本の文化を身に着け排出。卒業後の活躍を期待したいと願わずにいられません。

第7回広西地区大学生日本語スピーチコンテスト 2014年4月26日

この第7回日本語スピーチコンテストとは、全国大会の代表選手を決めるスピーチコンテスト

で広西壮族自治区各大学から選ばれた代表者の地区決勝大会であります。それだけにどの選手達も素晴らしい実力のある者ばかりが競う日本語スピーチコンテストでありました。

今年は広西師範大学の2年生の女性が広西壮族自治区の優勝者に選ばれました。

このような大きな大会に桂林日本人会も審査員として参加できることはうれしい限りです。

この広西地区大会の優勝者には日本への留学も約束され、中国全国大会に出場が決まっており

是非、中国全国日本語スピーチコンテストでも頑張って欲しいと願わずにおれません。

 

 

9回広西地区大学生日本語スピーチコンテスト 2016年5月7日

広西地区に於けるスピーチコンテストは、広西チワン族自治区の各大学の日本語学部の生徒による日本語スピーチコンテストであり、各校の予選を勝ち抜いてきた、選ばれた選手による地区代表を決定すると言う重大なコンテストにあたります。それだけに出場選手は日本語を

習い出して2-3年ですがその学力はびっくりするほど上手であり、感動だけでなく最初から最後まで関心させられ放しであります。

このスピーチコンテストでの一等賞を獲得した優勝者には一等賞という栄誉だけでなく、副賞には日本までの往復エアチケット頂けます。

まだ見ぬ日本、教科書で会得した日本語で多くの日本人と会話したり、ご自分の目で多くの物を見て日本の文化を肌で感じて欲しいですね

本年度の優勝者のお二人

各校の予選を経て広西地区スピーチコンテストに優勝
おめでとうございます。ここまでの道のりもご苦労が
多くあったと思いますが次は中国全国大会もあります

是非中国全国大会を目指してどりょ

メールでお礼の言葉を頂きました

桂林電子科技大学から携帯の薇信(日本のLINEに相当)にメールでお礼の言葉をいただきました。
年一度の大きなイベントに桂林日本人会も審査員と

して招かれ4人が参加致しました。緊張の連続でしたが無事にコンテストも終了大変良かったです。

休憩時に大正琴の演奏会

大正琴は桂林でも多くの愛好者が日々練習に励みながら楽しんでいます。桂林には数年前から一人の日本人の師範に依って広められ今や数十人のお弟子さんがいると聞きます

年に一度は日本にも家元木村流開催の演奏会に参加、桂林各地にも依頼があれば何処へでも出向き演奏をしています。そんな一環として今回もスピーチコンテスト会場に駆けつけ休憩の合間を縫って参加、会場に花を添えてくださいました。

前列ピンクの衣装が木村流桂林支部の皆さんで
11名のお弟子さんによる生演奏です。

広西地区カラオケ大会  2016年5月22日 広西師範大学雁山キャンパスにて

今年も広西カラオケ大会が師範大学雁山キャンパスにて開催されました。

今年は出場者が少なくカフェテラスの一角を会場にしておこなわれ審査員として桂林日本人会から5名が協力させて頂きましたカラオケは日本だけに留まらず日本の歌をここ中国でも愛されてよく歌われています日本人として日本のメロディーに遭遇すると何か嬉しい気持ちにさせられます。

休憩の合間にはダンスもあり会場の場を盛りり上げています。

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